みなさん、こんにちは。このブログを読んでくださっているのは、受験生の方がほとんどだと思いますが、卒業生の方、ご卒業おめでとうございます。金曜日の講義は、東大が卒業式だったこともあり、東大生は一人除いて全員欠席でした…。月曜日くらいまでは卒業式シーズンなので、別に休むこと自体に対して、文句を言うつもりはありません。ただし、それは、毎週実施している小テストでちゃんと結果を残してくれている限りにおいてですが…。
これまでに幾度となく書いていますが、就活市場が売り手優位になればなるほど、たとえ公務員が本命であっても、試験勉強に割く時間は減少傾向になるようです。少なくとも、毎週の小テストを見る限り、私の不安は日々増幅しています。ただし、これがうちの受講生だけの現象なのか、公務員志望者全体にみられることなのか、私には確信は持てません。ここ2~3年の総合職試験の一次試験の結果からは、おそらく後者だろうと思いますが…(幾度となく言っていますが、この結果と大学生の学力動向は全く別物です。予備校講師の眼からみた大学生には不安ばかりしか感じませんが、大学教員の眼からみた大学生には学力低下という危惧は正直感じません。定点観測をしている限りでは、むしろ、5~6年前の大学生の方が現在の大学生よりも勉強量に関して劣っているように思われます)。
それでも、受講生には、「周囲の準備不足に期待するな!ペーパーごときで覚束ない奴が、どうやって2週間、朝から晩まで拘束される官庁訪問を乗り切るんだ?」と厳しい態度で臨んでいます(新3年生には、真逆の態度で接してますが…)。もちろん、周囲の状況に大きく左右されるのが人間なので、気持ちと実際の行動が伴わないのは同情します。しかし、外的要因(といっても、大抵は自分次第でいくらでも都合がつくものばかりですが…)を理由に、こちらの具体的な要求に応えられない人に対しては、一昔前ならば、容赦なく叱責していたのですが、時代が時代だけに、最近はそれ以上何も言わないようにしています(私が学生ならば、こうした扱いの方が恐怖なのですが…)。
とはいえ、卒業式シーズンですから、卒業生、在学生、そして既に社会に出ている皆さんに対して、昨年同時期のブログ同様、「下を見る暇あったら、前を向け!」を贈る言葉といたします。ここからは、昨年同時期に書いたブログの内容とほとんど変わりません(メンバーは毎年入れ替わる一方、こちらが伝えるべき内容は1年で急激に変わるわけはないので、同じような話を繰り返すのも当然かもしれません…)。文章表現は一部変えていますが、読んだことのある方は、最終段落近くまで読み飛ばしても構いません。
受講生には話したことがありますが、私は、学生時代、留学期間も含め、学部・修士・博士課程で計13年もの長期間にわたり大学に籍を置いていました。足踏みをしたのは全て博士課程の時です。理由は単純です。就職先がないからです。文系で大学院に進学した人ならば少しは共感してもらえるとは思いますが、大学院生って、進学を志した時点でたいてい研究者になることしか頭にないのです。でも、ポストなんてそう簡単に見つかるものじゃありません。(今は、私が大学院生だった頃よりは、いわゆるオーバードクター対策もすすんでいるかと思いますが、常勤ポストの多くが任期制ばかりですから、将来に対する不安感は、むしろ悪化しているのかもしれません…)
焦りと生活のため、私は次第に大学から足が遠のき、アルバイトに勤しむようになりました。私は大学1年生の頃から途中空白期間はあったものの、博士課程修了までずっと、街の中心部にある自家焙煎珈琲店でアルバイトをしていました。そこは、お城のすぐそばで、大学が移転する前は文系・理系問わず様々な学部の先生が出入りし、私自身、大学の講義とは全く異なる会話が面白くて、実入りの良いアルバイトはいくらでもあったにもかかわらず、オーバードクターになってもずっとアルバイトを続けていました。
もう20年近く昔のある夜のことでした。1組の男女が珈琲店にやってきました。男性はずっと女性に介助されながら、2人はカウンター席に座りました。でも、なんか様子が変です。男性は私とカウンター越しで至近距離にあるにもかかわらず、私と目を合わせません。というより、見えていないようです。それどころか、注文を伺っても聞こえている様子ではありません。でも、ちょっとのタイムラグの後、ロボットのような声で(失礼なのはわかってますが、本当にこれ以外の形容詞が思いつきません…)返事が返ってきました。
喫茶店の同僚とそのお客さんの会話をしばらく見ていると、傍らの女性が男性の手のひらや指を細かく触り(これが指点字であることを知ったのは、しばらく後のことでした)、その後、男性が声を出すことに気づきました。ここまでで、ブログの読者の中には気づかれた方もいるかもしれません。その男性とは、現在、東京大学先端科学技術研究センターの福島智・教授です。当時は、金沢大学教育学部助教授として赴任されており、喫茶店にやってきたその日は、私のバイト先の常連さんが営むお寿司屋さんの帰りだったように記憶しています。
その後も何度か先生はお店に来られましたが、残念ながら、私は何を話したのか記憶には残っていません。ただ、一つ言えることは、当時止まっていた私の時間を動かすきっかけになったのが、先生との出会いである、ということです。
我々は、五感を駆使することで他者とのコミュニケーションを図ります。そのなかの一つが失われると想像しただけで、私は絶望的な気分に苛まれますが、先生は視覚と聴覚の重複障害を抱えながらも、なお社会との関係を模索する…。翻って、自分はというと、足踏みしている状況を全て外的要因に求め、大学に背を向け、街中でバイトに勤しむ。社会勉強と言えば聞こえはいいけれど、実のところ、自分よりもっと厳しい状況にある人を見たり知ったりすることで(飲食関係のバイトって、この手の話を耳にする機会がいまでも多いかと思います)自分を慰めているだけではないのか?
その後、時間はかかりましたが学位論文を提出し、どうにか学位取得にこぎつけ、進路こそ当初の想定とは全く異なりましたが、予備校講師と大学教員という二足の草鞋を履きつつ今日までどうにか生きています。受験生や就活に勤しむ皆さんは今から6月くらいまでが精神的に一番堪える時期かもしれません。また、4月から仕事をする皆さんも最初の3か月くらいは歓迎会やら研修での新たな出会いで楽しい想いをするかと思いますが、そのうち、理想と現実のギャップに苦しみ始めます。そのときに、もし自分より厳しい状況にある人を見出すことで、直面する自分の苦しみに耐えようとするのならば、それは、どう控えめに見ても健全な姿とはいえません。自分より恵まれないもの、厳しい環境にあるものを探そうとする時点で、そこには格差や差別そして妬みが生じます。
もし、自分がいまのままでは、求める成果を得ることが極めて厳しい状況に置かれているとしましょう。そのとき、我々は自らを鼓舞して努力する行為を放棄する代わりに、「自分たちまでは存在価値を認める」と線引きをし、自分より下(とみなすもの)を見つけ出しては、最悪、存在そのものを否定する行動に出るかもしれません。でも、そんなことしても、一時的に気持ちが軽くなるだけで、現実は何も変わらないのですが…。それどころか、努力している人を評価しようという気持ちを持てず、あら捜しばかりして、その人が何らかの事情でつまずいたときに溜飲を下げるという、まったく面白みのない人間になってしまいます。
だからこそ、「下を見る暇あったら、前を向け!」の姿勢が必要だし、そうした姿勢を持ち続ける限り、余計なことを考えることもなくなると思います。たしかに、試験勉強の場合、効果がすぐに現れるわけではありませんが、幸い、本試験までまだ1月ある上、CIMAアカデミーの小テスト(といっても毎回1時間ですから、それなりの規模になります)は4月からは週2回のペースに増えます。経済区分の場合、専門科目における暗記問題は40問中15~6問ありますから、理論問題や計算問題が苦手であっても、自分を追い込めばまだ間に合います(財政事情や経済事情を軽視する人があまりにも多すぎます!これらの科目は時事とは対象となる時期からして全く異なりますよ!)。
新3年生の方も、4年生のこうした苦悩を垣間見つつ、一緒に講義に参加することが後々、大きな助けになります。なぜなら、秋以降聞くことになるであろう内定者の話はたいてい、話が盛られていますので(人間の性として仕方ないです…)、どの時期に何をすべきか、ということを冷静に判断するためにも、一部の科目だけとはいえ、一緒に講義に参加することは極めて有意義なことだと思います。
長くなってしまいましたが、4月以降、みなさんがそれぞれのステージで輝けることを祈ってます。社会人になる方も、時間が許せば、うちのブログを覗いてもらえればうれしいです。それでは、今日はこの辺で。