みなさん、こんにちは。今年最初のブログになります。一昨日は新年最初のCIMAアカデミー講義(大学も!)でした。私個人は、事情系科目や2次記述対策の教材制作で年末年始も普段通り仕事をしていたのですが、やはり講義をしないと、新年を迎えた気にはなれませんね。春試験を受験する方も、きっと正月も関係なく試験勉強をしていたことでしょう…?!
年明け早々、各省庁では業務説明会が頻繁に開催されていますが、この時期くらいになると、初心者向け説明会に加え、より専門的な話や政策シミュレーションなど、受験生の興味を惹くイベントも開催されるようになります。当然ながら、受験生側も次第に第一志望の省庁が決まってきます。そして、第一志望が決まると、今度は採用されたいという想いが強くなるわけですから、志望先ではどんな人を求めているのか研究し始めます。
この時期から、私に限ったことではないと思いますが、予備校講師に対して試験勉強以外の質問、具体的に言えば省庁とのマッチングに関する内容が増え始めます。前にいた予備校では、「△△省って、私に合いますかね?」「私って、どこの省に向いてますか?」…本人は真剣なのかもしれませんが、あまりの無邪気さというか天然な質問に私は怒りの感情を抑えるのに必死でした。
CIMAアカデミーの受講生は志望先や将来の目標がはっきりしている人がほとんどなので、このような質問はまずありませんが、「私は○○省第一志望なんですが、○○省って、どんなタイプの人が多いんですか?」「本命は決まっているけれど、官庁訪問で他どこまわればよいかわからない」といった質問は毎年のようにあります。
後者については、いろいろな省庁の説明会にたくさん参加するよう、「同じところばかりの話を聞くことで終始せず、もっと視野を広げなさい!」と促すことで済みますが、問題なのは前者です。もちろん、こういう質問をしたくなる心境も理解はできます。しかし、何らかの回答があったところでどうするのでしょうか?第一志望に入りたいが故に、性格を変えるのでしょうか?それとも、自分の性格に合ったところにでも志望先を変えるのでしょうか?(その程度のことで志望先を変えることはないと思いますが…)
だからといって、「自分に自信を持て!」と言ってみたところで、売り手市場とはいえ就活と情報の非対称性は、切っても切り離せない関係にあることから、第一志望先はどんな人材を求めているのか、どんなタイプの人が多いのかは気になるし、求められる人物像がわかれば自分を少しでも近づけていきたいと思うのは仕方ないのかもしれません。
求められる人物像を読み取りそれに自分を近づけていく方法は、官庁訪問ではともかく、時間にして20分程度で一発勝負の人事院面接だと、案外高評価につながります。まあ、よく言えば「気が利く人」(悪く言えば…と言うことは書きません。今回のブログの趣旨は面接で高い評価を得る人を貶めることではないので…)が求められているということなのでしょうが、このことと、以前のブログで教養区分の2次試験で女性の方が男性よりも合格率が20%ほど上回っている現実を重ね合わせると、女性優遇かどうかではなく、もっと異なる面が見えてきます。
教養区分2次試験における男女別の合格率の違いは、2次試験の科目に対する苦手意識の差にあるのでは、と当時書きましたが、実は、「自分が他者にどう見られているのか?」に対する意識の差にあるのでは?と現在の私は考えています。話がやや脱線しますが、「いい男」といった場合、映画やTVあるいは様々なメディアを見る限り、その対象は外見だけではなく、極めて広範囲であるように私の目には映ります。では、逆はどうでしょうか?自分のことを棚に上げて言いますが、外見が占める割合はかなり高いように思われます。
他人の目に晒されているという意識が強ければ、好き嫌い関係なく求められる人物像に自分を近づけていくことは、割と容易にできます。自分は周りとは違うとか、自分がどうありたいのかをいくら真剣に考えたところで、まずは選ばれないことには先には進めないのですから、こうした割切りができる人が就活で上手くいくのは当然なのかも入れません。
言い換えれば、就活において面接に苦手意識を持っている男性は、それほど悲観的にならなくて良いのでは?ともいえます。さきほど例として挙げた「いい男」同様、自分が下した決断を信じて、後は努力を重ねていけば、たとえ一度や二度就活で失敗を経験したとしても、周囲に認められる可能性はかなり高いのですから…。
現在、女性の採用割合拡大が叫ばれ、事実、総合職試験における女性の採用数は年々増加しています。しかし、採用側はというとほとんど男性が占めています(全員といってもいいでしょう…)。ゆえに、過渡期にある現在は、求められる人物像を演じるという作業なくして、自己実現への道は開かれないのかもしれません。しかも、演じる姿が相手に受け入れられたのですから、立場が向上していくまでの間は、仕事という場でひたすら演じ続ける必要に迫られます。しかし、求められる人物像をずっと演じ続けるなんて無理です。そう考えると、効率性だとか生産性向上だとか、私が日ごろ用いている経済学の枠組みなんか使わなくとも、労働時間短縮は人間であり続けるためには必然の潮流であるといえるでしょう。
これから就活に臨む人あるいは内定先へ就職しようとする人に表題のようなことを言うと、評論家気取りのエゴだという誹りを受けることでしょう。それでも、あえて言います。もう少し自由になりませんか?これ以上、仕事で追いつめられる教え子をみたくはないし、聞きたくもありません。新年早々、重たい話になりましたが、それは私がオモエモン大ファンであることに免じて許してください。それでは、また。